通勤電車には、暗黙のルールが存在する。マナーと言ってもよいだろう。たぶん地域ならではのローカルルールがあるだろうから、私が乗っている東京近郊を走る電車の話として、聞いていただきたい。
まず、車内での大声の会話について。これは控えなければならない。ほとんどの人が一人で静かに乗っている。たとえ連れがいたとしても、言葉少なが望ましい。電車の音はうるさいはずなのに、揺れとともに眠りさえ誘う心地良さがあるが、車内での人の大声や笑い声については、なぜか不快に感じるものだ。
たまに、女性のグループが車内で話に花を咲かせてしまうことがある。いつの間にかできたルールは、いつも通勤電車を使っていればわかるものだが、その人たちはたぶんルールを知らないのだから仕方ない。しかし、乗り合わせた者は困ってしまう。たいてい皆、うるさいなあと思いながらも我慢している(と思う)。そんななか、堪忍袋の緒が切れたか、はたまた年長者としての役割を果たそうとしたのか、そばにいた男性が「うるさい!」と一喝したことがあった。
とたんに車内は静かになったけれど、気まずい雰囲気が車内を支配してしまった。居合わせた私もあまり良い気分ではなかった。相手や周囲に不快な思いをさせず注意するというのは、非常に高度なテクニックが必要なのである。もちろん、注意された側が素直に聞く心を持つことが大事なのは言うまでもないが、注意のためのテクニックを誰もが体得できれば、世の中もっと平和になるだろうなあ。なんて思いつつ、「注意は穏やかに」という通勤電車のルールもあるかなと思う。ヘタしたら、刺されたりする世の中だしね。
車内でのローカルルールはまだある。ある日のこと。目の前の席が空いたので、つり革につかまっていた私が座ろうとしたところ、斜め後ろから、年配の女性が滑り込むように先に座ってしまった。
「座席は、目の前に立っている人が、次に座れる優先権をもつ。」
電車に限らず、席が空けば最も近い人が座るのが自然だろう(お年寄りなどに席を譲るのは当然のこととして)。車内ダイエット運動でもしようと思わない限りなるべくなら座りたいが、席取り合戦は朝から疲れるし、いじまし過ぎるので、共通認識としてこのような暗黙のルールがあるのである。
私は座れるはずだったのにと思いつつも、ま、しょうがないと、つり革につかまり直した。ところが、電車が次の駅に着こうとしたとき、
「アナタ、アナタ!」
座った女性が私に呼びかけてきたのである。「ほら、後ろ! 後ろが空いたわよ!!」
後ろを振り向くと、声が聞こえたのだろう、空いた座席を前に優先権のある人が困り顔で私をちらりと見た。いやいや、その席はあなたに優先権がありますよ……。私は手でどうぞと示して、向き直った。すると今度は、目の前の女性が困り顔になってしまった。彼女なりの親切心で声をかけたのにもかかわらず、私が拒否した形になってしまった。心の中で「これがルールなんです!」と叫んだけれど、察してよ~な気分なのであった。車内を移動しようかとも思ったが、それもおかしいだろうと、携帯をいじりながら一刻も早く降車駅に着きたいワタシであった。
さて、座席優先者のルールは次のような事態が生じても、変わらない。端の席に座っていた人が降りたところを、隣に座っていた人がすかさずスライドして、端の席に移ってしまったときだ。本来は端の前に立っていた人が座るべきところ、一瞬にして隣に立っていた人に優先権が移ってしまうという「なんだよぉ」な例である。隣に立っていた人にとっては「棚からぼた餅」ならぬ「前からぼた席」であるが、端に立っていたサラリーマンは、座ったら膝に乗せようと網棚のバッグに手をかけていたのに、そっと手を引っ込め、何事もなかったのように外のホームの雑踏をぼんやり見つめた……。
こんなことがないように、「通勤電車では席スライド禁止」っていう暗黙ルールもそろそろ確立してほしい。

